最近になってApple Vision Proを借りて使っている。
これがなかなか妙な体験だ。リモートワーク中心の職場なので、コミュニケーションに何か足りない、と感じている人はやはり少なくないらしい。XRみたいな技術がそこに役立つのか、という話になるのもわかる。画面越しの映像と資料だけで、打合せ室にいるときの情報量をすべて代替できていると考えるほうが、むしろ少し無理がある。あれは足りているのではなく、足りなくても回る、というだけなのだと思う。
ただ一方で、Vision Proクラスの臨場感を使って、バーチャルなリアル感をわざわざ再構築しようとする光景は、かなりシュールでもある。いや、そこが面白いのだが。
そこまでして人は何を取り戻したいのだろう、と考える。
人の気配なのか。
同じ場を共有している感じなのか。視線の動きとか、沈黙の圧とか、言葉になる前の空気みたいなものなのか。
情報は確かに欠けている。でも、欠けていても最低限は回る。困ることはあっても、すぐには破綻しない。その程度には今の働き方は成立している。だから気になるのは、何が不足しているのかという話よりも、何が戻ってくると人は満足するのか、ということだ。
そんなことを考えていたとき、ふと「そこに私はいません」という歌詞を思い出した。
最初は少し冗談っぽく感じる。けれど、あのフレーズはAI時代の仕事観に、妙なくらい重なる。
「そこに私はいません」
これを仕事の文脈で読むと、仕事はもはや人が席にいることで定義されない、という話になる。
昔、仕事は見えるものだった。
誰がそこにいるか。誰が会議に出ているか。誰がキーボードを叩いているか。誰が遅くまで残っているか。そういう物理的な痕跡が、そのまま仕事の証拠だった。
でも、いま起きている変化はそこから少しずつ離れている。
AIエージェントが入ってくると、仕事はますます見えなくなる。
指示は非同期に飛ぶ。実行はバックグラウンドで進む。成果はあとから現れる。人は操作員というより、設計者、監督者、編集者に近づいていく。
つまり仕事の重心が移っている。
身体の所在から、意図の設計へ。
稼働時間から、結果を生む編成へ。
この前提で「千の風になって」を読み替えると、歌詞の見え方が変わる。
墓は、旧来の職場観のことかもしれない。
席、オフィス、常駐、在席確認。そこに人がいて、見えていて、呼べば反応する。その安心感を支えてきた場所。
「そこに私はいません」は、価値は物理的所在に宿らない、という宣言になる。
「眠ってなんかいません」は、見えていないだけで処理は進んでいる、という状態に重なる。
「千の風」は、分散したプロセス、クラウド、並列化されたエージェント群だ。
「空を吹きわたっています」となれば、どこにも固定されない実行環境、遍在する知能の比喩として読むこともできる。
少し強引だろうか。たぶん強引ではある。
でも、この強引さには妙な説得力がある。歌の中心にあるのが、どこに存在するのか、という問いだからだ。
この歌は、死者が墓にいないという話であると同時に、存在の場所が変わった世界の歌としても読める。
そしてAIエージェント時代の仕事も、まさにその地点に立っている。
以前なら「自分で手を動かした」という実感が重要だった。いまは違う。本人が全部を手で回していなくても、その人の意図、ルール、判断基準、委任の仕方がシステムに埋め込まれ、成果として立ち上がるなら、それは十分にその人の仕事だ。
むしろ、そこにこそ差が出る。
優秀なAI活用者は、全部を自分でやっている人ではない。
自分の思考を、他の知能や仕組みにどう宿らせるかが上手い人だ。
席に張り付いていない。ずっと画面を見ているわけでもない。けれど、任せたものが動いている。判断の型が流れ続けている。見えないところで、自分の仕事が広がっている。
かなり風っぽい。
ここで、もう一段深く考えると、この歌はAI時代の労働の幽霊化にも重なる。
少し不穏な言い方だが、たぶんこれは今後ますます現実になる。
昔の仕事は、人が働く姿が見えた。だから安心できた。誰が頑張っているかも、誰がサボっているかも、ある程度は見えていた。雑だけれど、目に見える労働にはわかりやすさがあった。
でも今後は、仕事のかなりの部分が不可視化する。
誰がどこまでやったのか見えにくい。人がやったのかAIがやったのか境界が曖昧になる。価値の源泉は実作業そのものから、設計、文脈、判断へと移る。
「いること」より「効いていること」が重要になる。
この変化は合理的だ。けれど、人間の感情はそんなにすんなり追いつかない。
席にいる人を見ると安心する。会議に出ていると仕事している気がする。
忙しそうにキーボードを叩いていると、何か前進しているように見える。
たぶん私たちは長いあいだ、見える労働で安心してきたのだと思う。
だからこそ、Vision Proのような装置で「そこにいる感じ」を復活させようとする試みは、単なるガジェットの話ではない。欠落した情報を補うだけではなく、人が仕事に感じてきた安心の輪郭を取り戻そうとしているのだろう。
ただ、面白いのはそこから先だ。
本当に仕事の価値が、身体の所在から意図の設計へ移っていくのだとしたら、私たちは失われた臨場感を取り戻すだけでは足りない。むしろ、見えなくても働いているもの、そこにいなくても作用しているものを、どう信頼するかという新しい感覚を育てる必要がある。
静かで、見えず、それでいて広範囲に作用しているものが仕事になる。
気づくと結果だけが立ち上がっている。ほとんど風だ。
そう考えると、「そこに私はいません」という一節は、死者の言葉であると同時に、これからの働き方の輪郭でもある。
価値ある存在は、もはや固定された場所にはいない。
その意味で「千の風になって」は、死者の歌である以上に、固定席を失った存在の歌なのかもしれない。
そしてそれは、不気味なくらい、AIエージェント時代の仕事に重なっている。